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皆さん、小さい頃から親御さんから、おじいちゃんやおばあちゃんから、学校の先生から、その他数多くの大人たちから、こんな風に言われてきませんでしたか?
人に迷惑をかけてはいけません!!
ご多聞に漏れず、ZAWAも思い返せば生涯で数限りなくこの言葉を聞いたり、時には自分で使っています。
ただここ数年は、ちょっとこの風潮に疑問を感じはじめてます。
なぜなら「これやったら誰かの迷惑になるかもしれない」って思っちゃうと行動が制約されます。
やりたくても出来ないということが生まれてしまうんです。
或いは自分が楽しくやっていることを誰かから「それは他人に迷惑がかかるからやめなさい!」と咎められると、楽しい気分も台無しになります。
このようにこの考え方の所為で「ストレス」が発生してしまうからです。
「疑問が沸いたら調べてみよう!!」っという事で、
・なぜ他人に迷惑をかけてはいけない、とこんなにたくさんの人が思っているのか。
・本当に迷惑かけちゃいけないの?
みたいな内容についてZAWAが調べた内容と、独自解釈を本日はお届けしたいと思います。
それでは、始めます!
「迷惑」という言葉の歴史。
「迷惑」という言葉の由来は、「道理に迷うこと」という仏教用語だそうです。
万葉集などの古典では、「どうしていいか分からない」「戸惑う」といった意味合いで使われています。
辞書もみてみましょう。
1 ある行為がもとで、他の人が不利益を受けたり、不快を感じたりすること。
2 どうしてよいか迷うこと。とまどうこと。
コトバンク
昔は2の意味合いで使われることが多かったようです。
さらに、室町時代には「苦悩する」「被害を受ける」という意味合いで使われることもあったようです。
このように昔の「迷惑」の意味合いには振れ幅があるものの共通しているのは主語が「一人称」の時に使う場合が多かったということです。
でも、現在「迷惑」という意味は1の定義のように、私的ではなく公的な意味合いで使われることの方が多いです。パブリックな場所で、自分以外の誰かにかけてしまうのが「迷惑」という感じで。
これは戦前と戦後で大きく変わりました。
例えば戦前は、誰かに不利益を与えた者は「恥をしれ!」と叱られました。
自分の行いを見つめ直し反省しろ!とその人当人の問題として指摘していたのに対し、戦後(明治以降)は「迷惑をかけるな」と、不利益を与えられた側にフォーカスした指摘になっている。
敗戦国になったことで周りに気を遣うことになったとか、戦時という激動の時代の社会秩序を保つため、文部省が公共マナーを守れという意味合いで「迷惑」という言葉を政治的に使用したとか、意味合いが変わってきたことには諸説あるようです。
何が言いたいのかというと、現代日本人が呪文のように唱える「他人に迷惑をかけてはいけません」という言葉は、たかだか100年以内に使われるようになった言葉で、戦時〜戦後という特殊な状況下で生まれた文化であるという情報をまずはインプットして欲しかったからです。
何百年も前から続く日本人としての普遍的な正解という訳ではないみたいです。
迷惑かけちゃダメ!は日本独自の文化。
先ほど「現代日本人」と言ったのは、この「他人に迷惑をかけてはいけません!」という風潮は世界的にみるとかなり特殊な考え方のようだからです。
例えばキリスト教では、「困っている人は助けましょう」という教えにあるように他者から迷惑に対して寛容であろうとする文化がある。
同じようにインドでは、「他人に迷惑をかけるのは当たり前、だから他人の迷惑にも寛容になろう」という諺のようなものがあるらしい。
中国では、親しい間柄であればあるほど「迷惑をかける」ことを厭わないとのこと。「迷惑をかけることができる」のはそれだけ仲がいいからだ、という考え方。
面白い調査があって、ある旅行予約サイトが飛行機の「窓側席」と「通路側席」の希望を調べたところ、日本人が世界で唯一「通路側」を選ぶ人が過半数を超えた国だったそうです。
これは、トイレに行く時に人を跨いだり、どいてもらったり、寝てる人を起こさなくて済むからという「他人に迷惑をかけたくない」という考えが骨の髄まで染み込んでいるという日本人ならではの考え方の結果でしょう。
「迷惑をかけない」のは○。でも偏りすぎは×。
ZAWAはこの記事で、「別に人に迷惑かけてもいいんだよ?」って話だけをしたい訳ではありません。
物事には多面性があり、「迷惑をかけない」という文化にももちろんメリットはたくさんあります。
余計な摩擦や争いを起こさないで済みますし、外国人旅行者が日本の電車が時間通りにくることや駅にゴミが落ちていないことなどを称賛するなど、日本人の「他人に迷惑をかけない」「公共の秩序を優先する」という謙虚さや奥ゆかしさがプラスに捉えられることも多くあります。
ただZAWAは、そのプラスの部分だけを神格化して「唯一無二の正しい答え」と盲信することへの危険を訴えたいのです。
あまりに一方向に偏った考え方になると、「迷惑をかけなければ何をやっても構わない」というような過激な発想にも繋がってしまいます。
或いは、「迷惑(と思われるかもしれない)行為」が絶対的な”悪”として認識・判断されてしまうという事態も起こりますし、実際そういう風潮はあると思います。
少し余談ですが、以前ツイッターか何かで「公共の場で騒ぐ我が子を叱る親」の話をみました。
電車だかレストランだか忘れましたが、大声ではしゃぎ走り回る子供に対して親が「周りの人に怒られるからやめなさい。」と叱っていたそうです。
この話を聞いてZAWAは、「あぁ、迷惑をかけないって考えが当たり前になりすぎて、もはやネクストジェネレーションでは”怒られることをしてはいけない。”という価値観に進化しているんだな」と思いました。
同時に、他者との摩擦や争いを恐れ避けたいがために自分の子供を叱る際も、「他者からの目や評価」を理由に叱ることで、子供から「恐い親、叱る親」といったネガティブな感情を自分に向けられることを回避しようとする卑劣さのようなものも感じました。
一切「他人に迷惑をかけないこと」は現実的では無い。
ZAWAは「他人に迷惑をかけない」ということは理想論だと思っています。
努力目標として掲げたり、「なるべくそうしていきたいね!」とか「どっちか選ぶなら迷惑かけない方を選ぼうね」くらいのぼんやりした標語にするのがちょうどいいんじゃないかな。
なぜなら、人間が生きていく上で「他人に迷惑をかけずに済む」ことなんて無理だと思っているからです。
いくら自分が「迷惑をかけていない」と思っても、あなたの行為が「迷惑だ!」と感じる人が一人でもいればそれは迷惑になってしまいますよね。
○○ハラスメントなどと同じで、迷惑か迷惑じゃないかは、自分以外の誰かが判断することです。
煽り運転は迷惑行為としてニュースで取り上げられていますが、逆に車間距離を空けすぎてスピードもノロノロしすぎればそれも迷惑と捉えられてしまいます。
何を持って迷惑かという明確な基準は存在しないんです。
「迷惑をかけること=悪」ということが唯一無二の正解という考えは、極端過ぎると思います。
日本以外の国の考え方のように、「迷惑をかけずに生きるのは難しい。困っている人がいれば自分のできる範囲で助ける、助けてもらう方はありがたく助けてもらい相手への感謝の念を忘れない。そして誰かが困っている時には手を差し伸べてあげる。」そんな考え方の方が現実的ではないでしょうか。
ZAWAは、「白か黒か」といった二者択一的な結論ができるものばかりではないと思っています。
白と黒の間にはグレーの部分があり、黒よりのグレーもあれば、白よりの薄いグレーもあります。
物事にはいつだって多面性があり、それは立場やタイミングや状況によって解釈が異なるんです。
「あなたは迷惑かけたくない!と言うけど、俺は頼ってもらえて嬉しいよ!」って世界もあるでしょ?
「迷惑をかける=純度100%の悪」ではないと本日は主張させて頂きました。
自分の考えはもしかしたら間違っている可能性があるのかも?と踏みとどまって考えることができると、世の中の争い事は少し減るような気がしてます。
本日は以上です。
最後までご覧いただきありがとうございました。
赤澤飯店の主人:ZAWA
1982年東京生まれ。
脱サラし、海沿いの町で飲食店を営業。
ケアストレスカウンセラー。
『GOOD VIBES ONLY』をモットーに日々ストレスの無い毎日を研究中。
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