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どうも、ケアストレスカウンセラーのZAWAです。
ここ数年ZAWAは「解釈」って武器を使いこなせるとまぁまぁ無敵なんだよなぁ、ってことをよく思います。
ニーチェ先輩も「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。」という名言を残してます。
例えば、あなたがもし今「悩み」を抱えているという事実があった時、実はその事実の前段階に「自分は今○○について悩んでる!苦しんでいる!」というあなたの解釈が先に来る。
つまりあなたが悩んでいるという事実は、あなたの解釈が生み出しているものだ。
多分ニーチェ先輩はこんな感じの意味合いでこの名言を使ったのではないかな?と想像してます。
このロジックでいくと、「事実」は「解釈」でいくらでも書き換えることができるってことですよね。
本日は、日々ストレスを感じがちな人たちに向けて「解釈」を自分で制御するためにどうすればよいのかを考察していこうと思います。
それでは始めます。
大体は「知る→考える→行動する」というプロセス。
まずは人間が行動するまでどのようなプロセスを経ているかを確認してみましょう。
人間って概ね「情報入手→解釈→判断→行動」というプロセスをとります。
ちょっと小難しいので、恋愛に関する悩みを例にしてこのプロセスを見てみましょう。
1:まず見たり聞いたり知ったりして情報を入手します。
2:次に感情や理性などを元に解釈を考えます。
3:次に経験や今まで蓄えてきた知識などでその解釈が正しそうかどうか判断します。
4:最後に判断した方向性での行動を起こす。
こんな感じのプロセスを経てる訳です。
解釈と判断はまとめて「考える」という行動で、ストレートに「解釈→判断」というプロセスではなく、解釈と判断を行ったり来たりすることもあるでしょう。
この奥様の場合は、自分の中の「感情・理性・知識・経験」を元に考えて、旦那が浮気をしていて帰りが遅いに違い無いという自分の気持ちがネガティブに感じてしまう解釈・判断を行いました。
そしてこの後、帰宅した旦那と一悶着起こることになるでしょう。
ただ、この段階で「旦那が浮気をしていて帰りが遅い」というのは事実でしょうか?
もっと言えば、「遅い」と感じる事もこの奥様の解釈・判断であり、深夜1時に家に居ないことが世界人類共通の「遅い」という事実ではなかったりもします。
毎日明け方に帰宅する旦那だったら深夜1時に家に居ないのは「いつものこと」ですもんね。
この辺がニーチェの言うところの「事実なんてのは無くて、全部あなたの解釈なんやで」って話なんだと思います。
例えば旦那さんが超絶奥さんに夢中でラブラブで、もうこの人が浮気するなんて考えられない!ってタイプの人であればきっと奥さんは「浮気」を解釈・判断することはなかったでしょう。
事前に「仕事で帰りが遅くなる」「今日は出張で帰らない」と言われていれば、遅い時間に旦那さんが家に居ないことは気になるようなことではなかったでしょうし、浮気常習犯の旦那であれば「本当に出張?浮気でしょ」って解釈・判断だったかもしれません。
或いは、奥さんが完全に旦那への愛が冷めてしまっていて、「全部どーでもいいし、なんなら離婚してもいい」みたいに思っていたら、旦那がいないことになんの感情も沸いてこなかったり、なんなら浮気してくれてれば有利に離婚できる、みたいな解釈・判断になるかもしれません。
これは「たら・れば」とか「可能性はいくらでもある」って話をしてるのではなく、人間の行動プロセスは「個々人が情報をどう入手し、それをどう解釈・判断し、そして最終的に行動に起こすか」に依るものであるという話です。
つまり、自分で生み出している解釈・判断なのであれば、そこをうまくハック(攻略)すれば悩みはある程度克服できるんじゃね?って話です。
どうでしょう?
全部じゃなくても、なんとなく「そうかも」って理解や共感をしてもらえてたら次へ進みます!
「解釈」にまつわるブッダの小噺。
ブッダに関するこんな小噺を見つけました。
「うぇ、宗教の話かよ!?」とアレルギー反応を出さず、小噺として読んでみてください。
ブッダ「弟子よ、”実体”なるものは存在しない」
弟子「・・・???」
ブッダ「弟子よ、お前は”家”というものが存在すると考えているか」
弟子「師匠、私は”家”が存在すると考えておりますし、その中で暮らしております」
ブッダ「では弟子よ、私が指を指す方を見なさい。そこには何が見える」
弟子「何の変哲もないただの木の家でしょう」
ブッダ「弟子よ、お前はこれを”家”と呼ぶのだな」
弟子「それ以外になんと呼べばよろしいでしょうか、師匠」
ブッダ「ではこの家から床を取り除くことにする。弟子よ、これは”家”と呼べるだろうか」
弟子「言えます、師匠」
ブッダ「ではこの家からさらに屋根を取り除くことにする。弟子よ、これは”家”と呼べるだろうか」
弟子「不十分ではありますが家と呼ぶことも可能でしょう」
ブッダ「ではこの家からさらに壁を取り除くことにする。弟子よ、これは”家”と呼べるだろうか」
弟子「師匠、これはもはや家とは呼べません」
ブッダ「お前は今まで”家”であると述べてきたものを”家”でないと言った。弟子よ、お前にとっての”家”は壁であったのか」
弟子「師匠、それは違います。壁がなくとも柱と屋根があればそれは家と呼べるでしょう」
ブッダ「では一体”家”なるものはどの時点で”家”となり、どの時点で”家”でなくなるのか」
弟子「師匠、それは我々の暮らしに安息を与えるものにできる時点でしょう」
ブッダ「つまり”家”なるものは個々人の思い方によって存在する時点が異なるというのだな。草原に生きる人は布の天幕にも安息の場を見いだすが、雨風の多い我がインドの地に生きる民はそうはいかない」
弟子「そういうことになりましょう」
ブッダ「弟子よ、お前は初め「家は存在する」と言った。しかし”家”というものなど初めから存在しないのだ。その存在は我々の心が作り上げたものでしかないのだ。」
ブッダ「同じことはあらゆるものに言える。存在は絶対的なものではなく、相対的に我々が生み出しているのにすぎない」
弟子「師匠、それは違うのではないでしょうか。家は存在しないかもしれませんが、それ以外のものには確実に存在しているものがあります」
弟子「家は人が作り上げるものですから、確かに人がいなければ存在しておりません。しかし、家を作るために必要な”木”は確実に存在しております」
ブッダ「なぜそう考える」
弟子「木は人間の存在に関係なく存在しているため、個々人の考えに左右されることもないからです」
ブッダ「弟子よ、そなたの考えはまことに鋭いものだな。しかしそれは違う」
弟子「なぜですか、師匠」
ブッダ「”木”も所詮人の考えで生み出された相対的な存在にすぎぬ。弟子よ、そこに生えている木をこすってみよ」
弟子「こうすればよろしいのですか、師匠」
ブッダ「手のひらに何が見える」
弟子「木の表面から剥がれた小さな木屑が見えます」
ブッダ「弟子よ、それは”木”と言えぬのか?」
弟子「これはただの屑であり、木と呼ぶことなどできないでしょう」
ブッダ「ではその木の屑が集まったこの大木もまた、”木”と呼ぶことはできないのか」
弟子「それは違います、師匠」
ブッダ「なぜだ」
弟子「それは…」
ブッダ「あらゆるものはこのような屑が集まってできている。すべてのものは突き詰めて分解すれば極小の屑となる」
ブッダ「なぜ、そなたは木なるものがそれそのものとして存在していると思うのか。我々が単に屑の集まりを、ある段階に達したら木と呼んでいるだけだ」
弟子「それは木が我々にとって意味あるものであるから、単なる屑の集まりとは異なった見なし方をしているだけ、と?」
ブッダ「そうだ、あらゆるものは人との関わりによって存在を与えられる」
弟子「なるほど……あなたが普段おっしゃられている”縁起”なるものはそのことですね」
ブッダ「そうだ」
弟子「師匠、確かにその考えは面白いものではあります。しかしそれが結局のところ、私の人生にとって何になるのでしょうか。私は空虚な言葉遊びを嗜むために家を捨ててきた訳ではありませぬ」
ブッダ「弟子よ、存在に囚われぬことで初めて我々は苦の呪縛から逃れられるのだ。我々が目指す地は、正にこの縁起の理解なくして辿り着けぬ」
ブッダ「我々はなぜこの世には”悪”なるものが存在するのかと心を悩ませている。しかし弟子よ、それは無益だ。”悪”などは初めから存在しないのだから。あらゆるものは我々が生んだ言葉でしかない、そこに絶対的な存在はないのだ」
ブッダ「それは”悪”のみではない。”善”も”美”も”快”も存在しないのだ。」
ブッダ「我々は往々にして快楽に溺れる。その欲望は無限に尽きることはないが、我々の力は有限だ。ゆえに我々は必ず手の届かぬ快楽を前にして苦に苛まれることとなる」
ブッダ「しかし弟子よ、案ずるな。快楽とは絶対的なものではない。それは初めから存在しているのでない。ただ我々の心が生み出したものなのだ。ならばそれは必ず克服できる。そもそも我らがそれを生まなければいいのだ」
弟子「師匠、我々はどうすればそれを生まぬ人となれるのでしょうか」
ブッダ「弟子よ、”美”も”快”も”名”も、そして”苦”でさえも全て『言葉』であることを知れ。それらはみな先の木の家である。我々がそれを生み出したことを知るとき、我々はそれらへの従属から解放される」
ブッダ「それらは絶対的存在ではない。ただの言葉なのだから」
ブッダ「あるゆるものが存在しないことを知るとき、我々はついに”存在”に対して執着することを止めるだろう」
ブッダ「その時こそ、初めて我々は苦から解放されるだろう」
不思議.net より抜粋
これはお釈迦さまの「色即是空」という教えの内容をわかりやすくストーリーにしたものだと思いますが、結構冒頭のニーチェの「解釈」の話に通じる部分がありますよね。
世の中や人生には喜びや悲しみ、善悪、幸福・苦悩など色々なもの(事実)があるけれど、それはただの言葉であり、あなた自身が生み出して(そう解釈して)いるものだ。というような話です。
いきなり仏教の話とか、宗教の教えの話をすると多分「なんか怪しい」と不信感みたいなものが沸いてくるかもしれませんが、ZAWAはあまり宗教のこととか詳しくないですし、多分皆さんと同じようにそういった非科学的だったりスピリチュアル系の臭いがする話には胡散臭さみたいなものを多少感じたりします😅
「ブッダの言うことは絶対!!」みたいに盲信することは無いですが、宗教とか哲学って自分の「解釈」をセルフコントロールできるようになることで、「豊かで幸せな人生」を送るためのものなんじゃないかなとZAWAは考えています。
怪しくてもなんでも、幸せだと思えるなら使わない手はないですよね。
誰かに強制的に思想を押し付けられる訳でなく、使う使わないも自身の判断だから怖がる必要もないですし。
ということで、次はZAWAが物事を解釈・判断する際に持っている前提のようなマインドセットを紹介したいと思います。
ZAWAオススメの解釈ライフハック。
「無知の知」「不知の自覚」
という言葉は、古代ギリシアの哲学者ソクラテスさんが言ってた言葉ですが、ZAWAはこの考え方がすごく有用な考え方だと思って生きています。
世の中のこと全てを理解する、森羅万象の知識を取り込む、みたいなことって現実的に不可能ですよね。
つまりいつだって自分は「○○において無知」である。
或いは、「○○について本当にわずかだけ知識のある人」である。
ということなのではないでしょうか。
自分は無知で何も知らないんだな。
自分が分かってると思ってることは、ほんの一部・氷山の一角でしかないんだな。
そういう謙虚?な気持ちを持って解釈・判断をすることができると、格段にストレスは減るはずです。
「絶対これはこうに違いない!」とか「これはこうするのが当然!」とかそういう思考が格段に減るからです。
よくこんなこと言う人いませんか?
「天ぷらは塩で食うのが一番美味いんだ!わかってないなぁ」
とか
「焼肉屋でライスを頼む奴は馬鹿だ」
とか
「目玉焼きにソースをかけて食べるなんて信じられない!」
とか、なんやかんや。
強い口調で「こうあるべき論」を唱えてますけど、結局これも自分が知っている知識や経験を元に解釈・判断した意見であって、絶対的な正解などでは全くないですよね。
食べるその人が美味しいと感じる食べ方をすればいいんです。
こういうあたかも自分は「知っている」という態度の行動は、ネガティブの苗床になります。
言われた方は「そんなの余計なお世話だ」とか「え、自分間違ってたのかな…。」みたいな嫌な気持ちになりますし、言う方も「間違ったやり方を見て不快」「そんな食べ方してもったいない」などというネガティブな気持ちが生まれることでしょう。
ZAWAは他人から何かを言われても、
「そういう考え方もあるかもね。でもそれはあなたの考えで自分の考えとは違う」
って考えるので、それが否定的な発言であったとしても大したダメージありません。
自分も相手も知らないことだらけなんだから、何が正解で何が不正解なんていちいち気にしてたらキリがないですしね。
そんなZAWAも昔からそう考えられてた訳ではありません。
ストレスを自分の力でなんとか克服したいなと色々考えて試した結果、このように考えるのが一番効率やコスパがいいと思えたのでそう考えるようになったんです。
自分にそう言い聞かせる、強烈に意識する、思い込むことで、ストレスをコントロールできるようになってきました。
この記事のタイトルにも使用してるワードの”洗脳”とか”マインドコントロール”と言う言葉の響きはちょっと怖いイメージありますが、ZAWAがここで使っている意味合いとしてはもっとライトで、「解釈・判断をする”前提”としてセットしておくマインド」って感じです。
先に話した奥様の件も、「旦那が今現在何をしているか分からない」「旦那の考えていることや感じてる気持ちすべてを把握している訳ではない」という自分の無知・不知の部分を自覚できていれば、旦那が帰宅した瞬間に頭ごなしにキレる!みたいなことしないで済むかもしれません。
どうせ考えてもわからないんだから…とか、どうせ知らないことばかりなんだから…って、諦めたり思考放棄しろっていう話ではありません。
喜怒哀楽を捨てろって話でも勿論ありません。
ブッダの教えで言えば、「執着はするな」ってことだと思います。
自分の人生って、結局自分が全部決めることです。
周りの人に「あなたは不幸な人だ」と言われたとしても、あなたが幸せだと感じていれば紛れもなくあなたの人生は幸せな人生なんです。
「幸せな人生」に必要なものは、「自分が幸せだと思い込める力」なのかもしれません。
この力さえ鍛えられれば、我々は今すぐにでも「幸せな人生」を勝ち取ることが出来るのです。
あなたもZAWAと一緒にこの力を鍛えてみませんか!?
本日は、「解釈」でストレスをハックするというお話をさせて頂き、いくつかそのために有効な思考法を紹介いたしました。
最後までご覧いただきありがとうございました。
赤澤飯店の主人:ZAWA
1982年東京生まれ。
脱サラし、海沿いの町で飲食店を営業。
ケアストレスカウンセラー。
『GOOD VIBES ONLY』をモットーに日々ストレスの無い毎日を研究中。
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